作中の天体についての考察(ネタバレ)

ハブ(Hub)の正体

イーガンの短編「プランク・ダイヴ」ではブラックホールへ飛び込む人がどのような体験をするかが描かれています。しかしあの短編で描かれているのは球対称で数学的に単純な「シュヴァルツシルトブラックホール」で、実際のブラックホールは周囲の時空が回転している「カー・ブラックホール」であると考えられます。本作品の「ハブ」はカー・ブラックホールです。本作品の執筆動機には、より現実的でより数学的に複雑なカー・ブラックホールについて、その時空の性質や近づいた場合にどう見えるかを直感的に、かつ自分で計算して理解しようという好奇心があったのではないかと考えられます。それがそのまま偶数章の登場人物の情熱に現れています。実際、本作品や作者HPにある解説で用いられている数学的道具立ては、一般的に使われる教科書的、天下り式に時空の解をいきなり提示するという方法とは全く違い、曲面に関する直感的に理解可能な道具立てを用いてボトムアップで構成していくものになっています。

ブラックホールは質量M、回転a、および電荷で全ての性質が決まります。
電荷については作中に手がかりはありませんが、現実には時空の性質を変えるほどの電荷を持ったブラックホールは存在しないと考えられます。電荷が十分大きい場合、事象の地平が消え特異点がむき出しになるなど、奇妙なことが起こります)
質量については、作中でゴーダル・エ・マーカスの質量が太陽の三百万倍という記述があります。銀河中心のブラックホールの質量の相場はざっくりと太陽の百万倍から十億倍、と見積もられています。作者後書きに挙げられている、恒星が銀河中心の巨大ブラックホールに接近した場合の振る舞いについてのNatureの論文(リンク)でもそう設定されています。三百万倍というのはその範囲の中では小さい方の値ですが、潮汐力は質量に反比例するのであまり大きいと作中のようにそれを体感できなくなってしまいます。なので小さめに設定したのだと思われます。また回転のパラメータaは自然単位系で1に非常に近い、と作中にあります。一般的な計算ではa=0.99など、1以下で1に近い値が仮定されることが多いようです。(1以上の場合も数学的には解がありますが、特異点がむき出しになるなど妙な事が起こり、現実にはありえないと考えられています【宇宙検閲官仮説】)
作中でも作者のHPでも、光速c、重力定数Gを1とした自然単位系が使われています。これを実際の値に直すには、自然単位系で計算してから(Mが入っている場合はM=1としてから)以下の数をかけます。

  • 速度:c = 3.0E8 (m/sec)
  • 距離: GM/c^2 = 4.45E9 (m)
  • 時間: GM/c^3 = 14.82 (sec)
  • ただし G=6.67E-11 (m^3/s^2 kg)、M= 3.0E6 *太陽質量、太陽質量=1.99E+30(kg)

スプリンターの初期の軌道は半径がr=2Mなので、値は890万km、1/17天文単位、月地球距離の約23倍となります。

大きさのスケール:


カー・ブラックホールでの自然単位系での半径rの軌道周期は 2π(r^1.5+a*sqrt(M))/sqrt(M)で、実際の値はr=2Mにおいて約356秒となります。外から見ると、光速の約52%で周回しているように見えます。そらぁ相対論効果を体感できるってもんです。

ただしこの周期は外からみた周期で、中で暮らしている人にとっては重力による時空の歪みでもっと遅く時間が経過します。r=2Mの位置だと時間は無限遠と比較して約41%しか経過しません。したがって中の人からみた公転周期は約145秒となります。星を見た場合、二分ちょっとで天空を一回転するので、見た目で動いているのが分かります。またヌル線での実験で計測されるその他の周期もこの値の何倍かなので、やはり目の前で石が輪を描いたりするのが分かります。

計算の詳細:スプリンターにいる人の主観時間をds, 外から見た時間をdt,その間に軌道を動く角度をdφとする。-ds^2 = g_tt dt^2 +g_φφ dφ^2 +2g_tφ dt dφ、これにdφ=ωdtを代入し計算すると主観時間dsと客観時間dtの比が分かる。

設定として中の人たちは体長が数cmくらいなので、さらに時間の感覚が違うこともあるかもしれません。(ゾウの時間 ネズミの時間)

a=1のカー・ブラックホールでは時空がある方向に回転しているので、r=2Mまで内側に来てしまうと、作中でも書かれている通り光が回転と反対の向きに進めなくなります。イーガンの短編「闇の中へ」を連想させるシチュエーションです。なんとなく視界の半分から光がこないので真っ暗になるように思えますが、それは止まっている人から見た話で、実際は何物もこの位置では止まっていることができないため、動いている人から見ると動けずに止まっている光に後ろからぶつかることで前が見えるし、後ろを振り返ると人を追い越して進む光がくるのでやはり光が見えます。
a=0のシュヴァルツシルトブラックホールでは事象の地平がr=2Mにあり、周回軌道が安定に存在できるのはr=6Mまでです。一方a=1の場合、事象の地平はr=Mにあり、周回軌道は単純計算ではr=Mの地平ぎりぎりまで安定です。

参考:http://nrumiano.free.fr/Estars/int_bh2.html

降着円盤の性質

ブラックホールの近くに星があってガスをどんどん吸い取られている場合、そのガスがブラックホールの周りを円盤状に回転しながら落ちて行く降着円盤ができます。流体とかいろいろ絡んできて簡単には計算ができませんが、適当な仮定をおいたモデルが1973年に提案されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Accretion_disc#.CE.B1-Disc_Model
このモデルでは中心の質量Mと、ガスが供給される速度(Mの上に点、単位1E+16 g/s)が分かれば円盤の温度分布や厚さ、密度などが計算できます。熱は軌道速度の違いからくる摩擦で発生するので、ガスの供給が多く濃いほど高くなり、また質量が大きくて軌道が大きいと速度差が小さくなり温度が低くなるようです。相場としては、以下の2資料を見ると

  • 質量 1.0E6*太陽、供給 1.0E+24 g/sec、最高温度 39万度
  • 質量 1.0E9*太陽、供給 1.0E+27 g/sec、最高温度 6.8万度

上の方のケースで計算すると温度も密度も高くなりすぎて、スプリンター内部にいても焼け死んでしまいそうな値です。作中で伴星がないという記述があり、また外に出た人はガスに晒されて焼け死んだけど鉄の機器は融けていなかった、という点などから、供給速度は相場より数桁小さくないといけないと思われます。逆に小さすぎると、ガスが薄くなりすぎてスプリンターに栄養や風を供給できません。
たとえば質量 3.0E6*太陽の場合に:

  • 供給 1.0E+17 g/secの場合、r=2Mでは温度2.9万度、ガスが水素原子だとして密度は常温状圧の0.18%。
  • 供給 1.0E+18 g/secの場合、r=2Mでは温度5.8万度、密度は常温状圧の0.64%

となり、このあたりの値なのではないかと思われます。

いずれの場合も、色温度的には太陽表面の5000度よりはるかに高温で、プランクの輻射公式を仮定すると人間の目には青白く見えると思われます。スプリンター人たちは赤外線とそれより長波長のテラヘルツ波で物を見ていて、輻射の光はあまり見えないと思われます。電子のシンクロトロン放射光がよく見えるような目になっているけど、降着円盤でのそういう計算は見つからなかったので、何色に見えるのかは分かりません。

スプリンター自体は周囲からの光と周囲の高温で薄いガスで加熱され、自ら熱を放射することで冷え(高温になるほど多くのエネルギーを放射)、両者のバランスする温度に落ち着きます。この温度が生物が暮らせる温度範囲、という条件も満たす必要があります(誰か計算を!)。

ガーム/サード端が中心から300mと仮定して軌道速度の差から風速をざっくり見積もると7m/s程度となります。

降着円盤がどう見えるか

こちらに遠くから見た場合の計算があります。
http://www.physics.usyd.edu.au/~luke/research/masters-geodesics.pdf
式が複雑ですが、それでもあらかじめ分かっている解(Kerr 解)を元に計算しているので、スプリンター人の苦労に比べれば非常に楽です。作中では5つの未知の関数を設定して四苦八苦していますが、最終的な解の形は上記PDFの式1.15 にまで簡単化できてしまいます。この式は曲がった空間における距離を表していて、光はそれが最短になるよう進むので、二点を結ぶ経路で最短のものを求めるという問題となり、標準的なオイラーラグランジュ方程式で計算できます。これは経路の二回微分が場所と速度で決まるような式ですが、上記PDFでは保存量を使って一次微分をつかった計算をしています。(精度はよくなるけど若干トリッキーになります。バネのニュートン方程式で、速度=sqrt((2E-k x^2)/m)という式を数値計算する場合を想像してください。一度速度が0になると永遠に0のままです)

水平に近い角度で見ると、上からブラックホールを回り込んで反対側の円盤が見え、また下から回り込む光によって円盤の裏側も見えています。円盤の表面の少し上まで来て眺めると、下から回り込む光は円盤に遮られてみえません。向こう側の円盤の表の面が回り込んで見えて、虹のように大きな半円が見えることになります。作中の描写では1/4円しか見えないとありますが、いろいろ計算して再現できていません。半円だと思うんだけどなぁ。ちなみにr=2Mでは天頂を通って円盤が空を二分し、一方の空はブラックホールの漆黒、一方では星空が半分の空におしこまれ輝き目に見える速度で回転しています。また円盤は半径によって回転速度が違い、また見る人の前か後ろかで相対速度が変わるのでドップラーシフトによって色が変化します。もっとぎりぎりまで行ってr=1.1Mあたりまで来ると、円盤は小さい虹になりその内側が星空、外側全部が漆黒になります。星と円盤は強烈にブルーシフトしていきます。そのうち虹と星空が小さくなり消えると後は特異点へ落ちるだけです。

こちらのページの中ほどに降着円盤の動画があります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Accretion_disc
おそらくシュヴァルツシルトブラックホールで、円盤の内側の端と事象の地平の間に大きな隙間があります。ここを通ってホールの周りを一周して目に入る光があるので、細いリングが見えることになります。イーガンのとある短編でも描写があります。しかしカー・ブラックホールだと円盤の内側は事象の地平に接していて隙間がないため、このような輪は見えません。

カー解

うちらの世界では、球対称なシュワルツシルト解が見つかってからカー解が見つかるまでに48年かかっています。発見者が当時を振り返った記録があります。
http://arxiv.org/abs/0706.1109

<放浪者>(Wanderer)の性質

水素の核融合で燃えている主系列の恒星と思われます。
作中で星による空間の湾曲がハブの1/6から1/8であると計算されています。質量がハブの1/8だと太陽の数十万倍となり、主系列の恒星としてありえないので、この比率は何なのかよく分かりません。太陽のシュワルツシルト半径は3kmで、半径70万kmの星の表面の湾曲は1/8なんてものじゃなくほぼ0です。(この天体が中性子星だとした場合、星自体の重力が非常に強く星が固まっているので潮汐力はほとんど影響を及ぼさないはず)
参考文献に挙げられている以下の論文によると、
http://www.nature.com/nature/journal/v333/n6173/abs/333523a0.html
太陽のような恒星がたまたまブラックホールの近くをフライバイした場合、広い宇宙の話なのですごい速度で通り過ぎて行くので、捕まって周回することはあまり考えられません。しかし通過する場合でも、近日点の距離がある値(r_T)以下だった場合、潮汐力で恒星のガスが違う方向へ引っ張られて星が分裂します。分裂したガスの一部は楕円軌道を周回するようになってそのうち降着円盤の一部になり、残りは飛び去ります。
また上記論文の後半では、連星の一方だけが捕まるなど、なんらかのチャンスで星全体が分裂せずに捕まるケースが考察されていて、これが<放浪者>の場合と思われます。この場合はしばらく潮汐力を受けない場所を周回していますが、新たな恒星が捕獲された時に相互作用によって急速に運動エネルギーを失い潮汐力の影響を受ける半径まで落ちて行くようです。
作中で<放浪者>はいろんな方向に圧縮されたり引っ張られたりして中心の温度が上がり、新しい種類の核反応が起こって爆発したのだと思われます。

Tidal disruption 参考資料 http://www.phyas.aichi-edu.ac.jp/~takahasi/Project_H_pdf/tidal-BH.pdf

材料強度

実際に<スプリンター>は過去に分裂したのでしょうか?
元々の大きさの600mくらい(考えてみたらスカイツリーほど。数cmの生物にとっては巨大)でr=2Mに放り込まれたとした場合、一番強い場所で1MPa(メガパスカル)程度の応力が発生するようです。自転と公転がロックする前までは応力の方向が時間と共に振動し、いわゆる疲労破壊がおこる状況ですが、1MPaというのは岩とかの強度からするとそれほど大きくないので、たぶん分裂はなかった、のかな?


小ネタ

登場人物の名前の中にはこちらの世界の物理学者を連想させるものが幾つかあります。ザック(Zak)、ネス(Neth)、ケム(Kem)など。ヒントは順に力学、対称性、回転。

内容的に、ニュートン力学(アイザックニュートン)からカー解(ロイ・カー)へ至る話ということか。

名前のリスト

  • Bard Haf Kal Sad Saf Tan Zak (Ra)
  • Fith Nis Sia Sida
  • Gul Lud Rud Ruz Zud
  • Kem Leh Neb Neth Pel Sen Zey
  • Cho Cot Jos Roi

母音 aiueo 子音 bcdfghjklmnprstyz(vw 未使用) th ch
全部で最大 22x22x 5 = 2205 通り。一世代ほどで使い回し?誰が子供に名前をつける?

逃げろ、この馬鹿者!

とある作品のガのつく人を思い出します。某作品"Fly, you fools!" この作品 "Run, you fool!"

Open Questions

  • 最後のところで観測された「岩」の正体は?恒星に岩はない。惑星や小惑星を捉えないといけない。あるいはスプリンターの片割れ?
  • 中性子星の円盤からブラックホールの円盤へ移った過程。その間にエネルギー供給のない時期がどの程度あったか。ある箱舟は捕獲され他は捕獲されないというのは条件として厳しそう
  • α-Diskモデルなどでガス密度分布を仮定、箱舟の釣り合い条件を定式化する。ちょうどいい密度と温度で安定するように透過率や密度勾配を設計する(もしかしたら、どこでも安定、あるいはどこでも中心へ落ち続ける、という結果になるかも)。これが違う円盤に移ったときに再びちょうどいい温度、密度で安定するか検証。
  • 孤高世界の方舟に対する意図
  • ハフはプラズマ推進装置を完成できたのか。電磁気学マクスウェル方程式を発見する必要がある。