●コウスカ『生の不可能性について/予知の不可能性について』 ISBN:4336024707 【アマゾン】

昔、金八先生かなんかで、精子が授精するのは何億倍という倍率を勝ち抜いて君達は生まれたんだから、高校受検の倍率なんてたいしたことないんです、みたいなこと言ってた。要するにそんなことが書いてある。

「自分が生まれて来る確率はいくつだったのか」という問題を考えた時、その答えは「自分が生まれて来る事象の数÷母集団の事象の数」となる。その分子と分母の定義が問題となる。違う精子が授精して生まれた人間は「自分」とは違う人間になったのか。違う人間でも、やはり自分のことを自分だと思ったのではないか。それならやはり「自分が生まれた」のではないか。そうすると確率は1に近くなる。あるいは逆に同じ精子が授精したとしても、親が買った宝くじが一等が当たって大金持になったら性格が全く違う自分になったのではないか。それは自分なのか。母集団はどういう集団をどう数えるのか。数え方によっては分母は無限になる。そうすると確率は0に近くなる。それが「不可能性」と本書で呼ばれているもの。

似たような話は宇宙論にもある。この宇宙の物理定数は惑星や生物が出現するのに非常に都合のいい値になっている。偶然だとしたらその確率はほとんど0になるほど、星ができたり生物ができたりする条件は厳しい。これをどう解釈するか。ある人はこれは偶然でなく必然で、神による創世の証明だという。またある人は、人間が生まれなければそのような疑問を考えることはないのだから、たまたま偶然であったとしても何の不思議もない、という「人間原理」を説く。知性体が生まれなかった宇宙というのは永遠にその存在を知覚されることはない。我々が知覚することも不可能。そうすると存在しないのと同じではないか、と考えれば母集団は知性が生まれた宇宙、あるいは我々が知覚できるこの宇宙だけになる。